2009年2月17日火曜日

外国人のメンツ

it’s all about the mentsu 面子 baby
ロコさんの投稿。メンツについて、そして、面子が日本人と外国人の関係に与える影響について。
中国人のご友人によると、中国では、面子が非常に重んじられる。
ロコさんによると、日本では、それでもないが、やはり、面子を重んじる文化がある。
ーーーーまあ、ここらへんはそんな感じのことがよくいわれることがある。

で、その面子の文化が在日外国人にどう影響するか?

日本人は一般に目立つの恥ずかしいと思う。
外国人は目立つ。
外国人といることは名誉なことであるが、他方、目立つが故に日本人の面子を失わせる、という。
However, westerners in Japan, by virtue of their strangeness, intentionally or not, invariably attract attention in a way that most Japanese wouldn’t wish on their worst enemies. We embody embarrassment, we’re walking talking losses of face…

我々外国人はは恥を体現しているのだ。我々は歩く恥さらしだ。しゃべる恥さらしだ。

I’ve found that most Japanese feel foreigners have no concept of Mentsu, have no face to gain or lose, have no stake in Japanese society aside from their capacity to cause loss of face to the Japanese people they come in contact with…thus we are considered an anathema to most people here;

外国人は面子がない、とおもっている日本人がほとんどだ、ということがわかった。外国人は面目を立てることも、メンツを失うこともない、と思っている。・・・ほとんどの日本人にとって、我々anathema呪われたものなのだ。
Anytime a Japanese person speaks of his or her proclivities, the pronoun “We” is invariably used. I used to trip out on this “We” business. Who the hell was this “We”? This “We” is the strongest statement Japanese people make. It’ s a wall they’ve erected around their culture that cannot be scaled by foreigners (aside from other Asians engulfed in the culture). Sure, you can spray paint your name in graffitti on the walls, and sometimes if you’re clever or lucky or come across a traitor in their midst (there are a few, male and female) you might steal a glimpse over the wall. But for the most part foreigners are perpetually barred.


 日本人は自分たちのことを話すとき WE、われわれ、という言葉を使うが、しかし、「われわれ」とはだれんなんだ、この”われわれ”の壁にたちふさがれて外国人は永遠に蚊帳の外なのだ、という。




 まあ、なんていうか、ぼくは、一生懸命日本で暮らして、日本を理解しようとしている方の努力の過程なのだと、温かく見守りたいと思う。

 外国人が他の文化を理解しようとする努力するときの一過程とはこういうものであり、日本人が他文化をみているときもこういうようなことがよくあるんだろうな、と思う。

 ただ、真剣に書かれているので、こちらも真面目にコメントとしておく。

 メンツとか面目ということに対して、なかなか比較的文化的なことは一概に言えない。

まず、メンツということに関して、例えば、ググると
この『面子』とは、日本でいうプライドとか自尊心を指します。
  しかし、この『面子』の位置づけが、日本や欧米社会とは大きく異なります。
  中国人は、『面子』を重んじ、『面子』のためには時として命を捨てる場合すらあるといわれます。
  最近の日本でも欧米社会のようにはっきりものをいうようになりつつあります。
  しかし、中国では相手の欠点を指摘する場合には相手の『面子』に十分な配慮をしなければなりません。
  中国人にとって人前で『面子』を潰されることはまさに死活問題となるからです


 日本人の場合、 体面体裁をアメリカ人より重んじることが多いということをおっしゃりたかったのだろう、と思う。

 で、外国人といることで、見栄を張れる、かっちょいい、と思われる、と思う人がいるか、といえば、そういう(日本)人もいるだろう。が、外国人といると恥ずかしい、体裁が悪い(日本)人がいるか、というと極めて、まれだろう、と思う。
 
 で、たしかに、日本人は英語で、WEを多用する場合があり、これが誤解を与えることを自覚すべきだが、しかし、日本語の会話では、「我」も「我々」も省略されるのが普通で、必要に応じて格助詞で補うだけである。日本語文法の謎を解くく参照

 で、ロコさんが、上に太字で示したように、外国人を日本人との対比するとき、we=外国人と使ったように、他文化と対比する必要があるとき、we と使うわけである。

 全体としては、たぶん、日本で苦労して生活されて疎外感を味わっておられるのだろう、とお察しする。

 抽象的に考えず、まずは日本語の習得をして、一人でも二人でも日本語で気楽しゃべれる日本人のお友達を作ることを薦める。
 日本人でも普段はそんなもんである。会社で上司に「この野郎」と内心思いながら、数人の親しい友人と心を割って談笑する。

 そして、「われわれ」のウチとソトの境界は文脈により、つねに可変的である。

 確かに、欧米人が日本社会で他の日本人・中国人・韓国朝鮮人と同程度に不可視に日本社会に埋没することは、身体的特徴と人口の少なさから言ってーーー少なくとも当面はーーーー難しい、と思う。
 しかし、例えば、日本人の友人たちと何かいっしょに苦労したり、一緒に悲しんだり、一緒に笑ったりする機会が多ければ多いほど、出身地を越えて「われわれ」の絆は強まっていくだろう。

 あと人間というものは、どうしても自分のこころの地図を相手に投影してしまうことがある。

 日本人はむしろ、欧米人のメンツを慮んばかって外国人に恥をかかせないように、間接的な言い回ししかしない場合も多いのだ。そのことにも気づいていただきたい。

 逆に、欧米人の方々が、非欧米人をanathemaあるいは、異端児と思っているのではないか、と感じることもある。文化論と死刑制度 常識的十戒参照
 
 他文化に住むということは大変なことであるが、メンツを捨てて、米国文化の枠組みから少し距離おいて日本や個々の日本人の顔や言動を観察してみるいい機会ではないだろうか?(それには言語の習得は必須である。)

 日本人にとっても、多くの黒人やアメリカ人の方と知り合いになることは、黒人やアメリカ人といってもいろんな人がいるんだ、といういい機会になる。

 ロコさんに限らず、これをお読みの在日外国人の方々も、気楽に議論に参加していただきたい。
 ともに考え、共に問題に取り組むことによって、われわれー個々の日本人と個々の在日外国人ーーの輪ができていく筈である。楽しみにしている。