2012年11月10日土曜日

尖閣資料 (石井准教授)

尖閣前史(ぜんし)、無主地(むしゅち)の一角に領有史料有り ① 長崎純心大准教授 石井望 尖閣論考
尖閣を通る東西航路  琉球は日本とチャイナとの二方面に臣服(しんぷく)する外交を結んでゐた。皇帝の使節一行が琉球に派遣され、琉球王が臣下の形式を執(と)ったことは教科書などにも出てくる。使節の船は琉球人の案内により福州から東に進んでタイワン島の北側をかすめ、釣魚(尖閣)列島を通って姑米山(こべいさん)(久米島)から那覇に到達する。ほぼ東西方向の航路であった。使節渡航をめぐる漢文諸史料の中では、航路上の琉球域西端は常に姑米山(久米島)である。姑米山の西の赤嶼(せきしょ)(大正島)を含む釣魚(尖閣)列島は無主地(むしゅち)であり、明治以前にいづれかの國の領有を示す史料は一つも存在しない。明治になってその無主地を先に領有したのが日本である。無主地時代から明治の日本領へとつづく歴史が釣魚列島の五百年であり、歴史から言っても法理から言っても日本固有の領土である。  チャイナはユーラシアの中で東方に孤立した文明である。中華思想をいつまでも捨てないのは、孤立した田舎者だからこそ可能なことだった。中華思想ではチャイナが天下の統治者だとの虚構(きょこう)を原則とする。天下の統治者にとって無主地はチャイナの一部分だとの理屈になり、昭和四十五年ごろから釣魚列島の領有を主張し始めた。無主地が自動的に自分の物だとは、もちろん公法上で無効の歪説(わいせつ)である。 航路上のチャイナ東端  念のため上述の航路上のチャイナ側の東端(とうたん)はどこまでか。諸史料をみれば、清(しん)の初期以前はタイワン海峽北部の東沙山(とうささん)(馬祖島)までであり、清の初期以後はタイワン島の北端(ほくたん)の鷄籠山(けいろうざん)(基隆)までであった。それを示す史料の例としては、清初の汪楫の「觀海集」に載せる漢詩の題に曰く、  「過東沙山、是閩山盡處」  (東沙山を過ぐれば是れ閩山(びんざん)のつくるところなり) と。琉球への往路を詠む詩集内の一首である。この前の詩では福州からの出航を詠み、後の詩では航路上の大海を詠む。閩(びん)とは福建省を指す。山とは陸地である。東に進む航路上で福建省の陸地がつきる最後の島が東沙山(馬祖島)だと、ここに明示してある。そこから東のタイワン島北端はまだ清の統治を受けず、まして釣魚列島が清の領域外であることは瞭然として明白である。しかしこれまで尖閣論議の中でこの記述は引用されたことが無かった。現在のチャイナはこの種の史料を無視してきたのだが、今年三月に拙著「和訓淺解(わくんせんかい)・尖閣釣魚列島漢文史料」の中で論破したので、チャイナの主張は遠からず消滅する運命にある。  更に念のため、清の前の明の東端はどこまでかとみれば、まだ完全に明瞭でないもののほぼ清と同じである。一例として明の郭汝霖の後述使録の復路に曰く、  「漸有清水、中國山將可望乎。」  (漸く清水有り、中國山(ちゅうこくさん)將(まさ)に望むべからんとす) と。これは操舵する福建の船長役が浙江の陸地の見える前日に報じた語である。中國山とは中心の國(ここでは明朝)の陸地・島嶼を指す。他の記録でも大陸附近で海水が黒色から淡色(たんしょく)になったあたりで「中國」(ちゅうこく)(中心の國)が近いと認識する。  要するに尖閣航路の正しい理解は、チャイナの東端が東沙山・鷄籠山の附近、琉球の西端(せいたん)が久米島、そして二者の間は無主地(むしゅち)である。(つづく)            ■    ■    ■  中国・明代の文書に、尖閣諸島が「琉球」と明記されていたことを初めて指摘した、長崎純心大の石井望准教授の論文を連載します(1日付本紙参照)。石井氏の希望で論文には旧仮名遣いを使用しています。ご了承ください。 琉球西端は姑米山と赤嶼の間か  琉球西端は久米島までとして史料上ずっと確定したものに見えるのだが、一つだけそこに疑問符をつける史料が明の郭汝霖の「重編使琉球録」である。郭汝霖は福州から東に航行し、嘉靖(かせい)四十(西暦千五百六十一)年閏五月三日に赤嶼(せきしょ)に至った。そして、  「初三日至赤嶼焉。赤嶼者、界琉球地方山也。」  (初三日(しょさんにち)に赤嶼に至る。赤嶼とは、琉球を界(かい)する地方山なり)  と記録する。尖閣研究で最も基本的な史料の一つである。姑米山(こべいさん)(久米島)の西の赤嶼(大正島)が琉球の分界(ぶんかい)の島だとの意であり、他史料とやや異(こと)なる記述である。但し姑米山の琉球域に向かって分界を成(な)す意に解すれば他史料と矛盾(むじゅん)しないかの如(ごと)くにも見える。即ち赤嶼と姑米山との間が分界となる。昭和四十五年以降の論議の中ではずっとこの解法が通行してきた。楊仲揆・井上清・奧原敏雄・呉天穎(ごてんえい)・尾崎重義・鞠德源(きくとくげん)・鄭海鱗(ていかいりん)諸氏及び人民日報など、概ねひとしく一致してゐる。ただ喜舍場一隆(きしゃばかずたか)氏だけは赤嶼そのものが界(かい)であるとの別解に言及するが、言及しただけでやめて仕舞って、結論では逆に赤嶼まで明(みん)の領土だとする。緑間榮氏は赤嶼のどちら側が界なのか不明確だとする。  赤嶼如何と論じる以前に、琉球の分界の島なるものは、琉球といづれの國との分界なのか。原文はそれを書かない。無主地との分界だから書かないのである。昭和四十五年以降のチャイナ側の主張では、天朝中華にとって自明の領土はわざわざ書かないのだとする。時の國士舘大教授・奧原敏雄氏はそれを荒唐無稽(むけい)としりぞけた。大功績である。 西端は赤嶼だった  では上述の郭汝霖の「界」(かい)の原意は赤嶼の東側なのか西側なのか。このたび私は初めてその解を定める記述を既知(きち)の史料中で見つけた。同じ郭汝霖の「石泉(せきせん)山房文集」卷七に「例を査(しら)べて祭を賜(たま)ひ、以て神功(しんこう)に報ゆるを乞(こ)ふ」と題する上奏文が載録してある。その中で上述の嘉靖(かせい)四十(西暦千五百六十一)年の琉球行に言及して曰く、  「行至閏五月初三日、渉琉球境、界地名赤嶼。」  (行きて閏五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地(かいち)は赤嶼と名づけらる)  と。琉球の境とは琉球の域内の義である。苦境・佳境・逆境・環境などの語で馴染(なじ)みの通り、「境」とは場所・領域を指す。「渉る」は「入る」とほぼ同じ意味である。「界地」とは分界(ぶんかい)の地である。全句は赤嶼が琉球の域内に進み入る分界の島だとの文意である。これにもとづいて見直せば、同じ郭汝霖の「重編使琉球録」の同日同地の記述も、赤嶼そのものが分界地となって、そこから琉球域内だとの意味になる。赤嶼と姑米山との間が分界だとするこれまでの解法は通じないことが分かる。  赤嶼の東側は海中の急峻な崖で沖繩トラフに落ち込み、そこを黒潮が流れる。「石泉山房文集」でも上述「重編使琉球録」の「敬神」(けいしん)の個所でも、ともにその海域で大魚(たいぎょ)が出現したことを述べる。黒潮の特徴である。「この特徴が琉球域なのです」と琉球人が郭汝霖に告げたので郭は琉球域と書いたのだと推測すべきである。そしてそこへの入り口が赤嶼だと認識されたわけである。明人にとって既知(きち)の事柄でないため、一方で「赤嶼者」と解説し、一方で赤嶼の前に「名」の字を冠する。 界そのものは域外か  では界地たる赤嶼そのものは琉球域内なのか域外なのか。それはまさしく域内でも域外でもなく、ただ界(かい)なのである。それが原文そのままの理解である。上述の喜舍場(きしゃば)氏の解が半分は正しい。但し界だと定(さだ)めたのは琉球の人々だったはずで、且つ界外は無主地(むしゅち)であるから、現代法に照らせば界そのものは琉球の領有である。野球やテニスなど多くの球技で界線そのものがセーフとなるのは何故か。線の外が隣(となり)の試合場でなく、ただの無効域だからであらう。  赤嶼につけられた「者」(しゃ)「名」(めい)の字で分かる通り、この「界」は海を知らぬ郭汝霖個人の認識ではなく、海路案内をした琉球人の認識である。使節船の航海が、記録にのこる最初から最後まで琉球人の導(みちび)きにたより切りだったことは、上述の奧原敏雄氏らが四十年前に論じた大功績である。郭汝霖の時にも出航前に立派な大船が中々準備できず、琉球の敏捷自在なる小船に一緒にのることを一度は思慮(しりょ)したほどである。ただ釣魚列島は日本と琉球との間の島嶼ではなく、琉球と明清(みんしん)との間の島嶼であるから、小さな琉球にほとんど記録が無く、明清側の記録ばかりのこったのは仕方ない。琉球人が航路上で提供した情報を明人清人が記録したのがこれら史料なのである。丁度ケルト文化をラテン語で書き記すのと同じである。 別解(べっかい)の可能性  念のため別解が有り得るかどうか考察してみよう。「渉琉球境」とは、赤嶼(せきしょ)を通り過ぎた後にしばらく航行して姑米山(こべいさん)(久米島)との中間線あたりで琉球域即ち姑米山海域に進み入ったことを指し得ないだらうか。答へは、指し得ない。郭汝霖「重編使琉球録」の記述によれば、閏五月三日に赤嶼に至って後一日の風を受ければ姑米山が見える筈(はず)だが、無風状態で船が三日間止まって仕舞(しま)ったと述べる。姑米山に近づき得ないことを言った記述であって、姑米山の海域に進み入ったとする意識のまさしく相反である。そして閏五月六日の午刻(ごこく)に風が吹いて船は大いに進み、夕方には姑米山のやや東北の小姑米山(粟國島)(あぐにじま)附近に到達したと述べる。半日だけでそこまで到達できたわけは、この海域の西から東に向かって太くひろい黒潮が流れ、三日間止まった間に東に漂流してしまったが故である。漂流しても三日かかってまだ姑米山(久米島)に到達しないのだから、二島の中間線に到達したのはほぼ閏五月五日であって、閏五月三日のうちには不可能である。よって閏五月三日に渉った琉球境とは、中間線ではなく赤嶼(大正島)からであると分かる。 他史料との整合性  他の諸史料では常に姑米山に至ってから琉球の領域内だとする中で、郭汝霖の記述だけは特殊(とくしゅ)に見える。これを整合するには、姑米山が界内(かいない)、赤嶼が界そのものだとするのが諸史料原文のままに素直な理解である。例として後の清の徐葆光「中山傳信録」(ちゅうざんでんしんろく)では姑米山を「琉球の西南方の界上の鎮山(ちんざん)なり」とする。先行研究は全てこの記述を以て姑米山が最西端(さいせいたん)だとしてきたが、今郭汝霖と併せみれば「界上」は界そのものでなく「界のほとり」と訓じ、即ち界附近の義である。鎮山とは風水で都城の背後に鎮坐(ちんざ)する主山(しゅさん)であるから、界附近の大きな島と理解すべきである。徐葆光は急に風水を持ち出したわけでなく、つとに郭汝霖が土納己島(渡名喜島)を風水の「案山」(あんざん)(中間の山)とするなどの前例を承(う)けたものである。 「中外の界」説の終焉(しゅうえん)近し  以上で琉球の領域が赤嶼までだったことをお分かり頂(いただ)けた筈(はず)である。平面で見れば、琉球の領域が少々西に伸びただけのことである。しかし、たて軸(じく)で見れば郭汝霖の記述は重大な意義を持つ。赤嶼(せきしょ)を含む釣魚列島は、多くの史料のどこを探しても國家による領有の記述が無い。だから無主地なのである。このたびの新見解は、明治以後百年あまりの尖閣研究の中で初めて領有に言及する史料が登場したことになる。史料そのものはあたり前に存在してきたが、この記述は尖閣論議の中に初めて出現する。百パーセント無主地だとの認識の一角が崩(くづ)れたことになる。  現在の我々が最も知りたいのは、この史料が日本側にとって(八重山人にとって)どうか、チャイナ側にとってどうかである。日本側にとっては赤嶼の東であれ西であれ明治になれば領有するので、あまり意味は無い。しかしチャイナ側にとっては衝撃(しょうげき)である。本稿前半に引いた清(しん)の汪楫は、赤嶼と姑米山との間で「中外の界」を述べ、他の清の尖閣航路史料でも同じ場所に「黒溝」(こくこう)の記述が有り、チャイナ側はそれを領土の分界線(ぶんかいせん)だとしつこい程に叫ぶ。しかし東沙山(とうささん)(馬祖島)までを領土とする汪楫本人が、はるかに尖閣の東の内外の界(かい)ひとつを以て領土分界とみなすはずがない。また同じ中外の界や黒溝の記録が釣魚列島のはるか西にも有ることを、かつて喜舍場一隆(きしゃばかずたか)氏(時の琉球大教授)が明らかにした。チャイナ側の立論(りつろん)はそこで潰(つい)えたのだが、西の界(かい)と溝(こう)とを全て無理やり赤嶼の東に存在するものとこじつけて延命(えんめい)をはかり、いつまでもやめようとしない。今次(こんじ)の新見解により、最も基本的な史料とされる郭汝霖使録の赤嶼が、チャイナ側から琉球側にころぶので、「中外の界」説のこじつけが更に難しくなる。 法的な意義は無い  現代世界の法理としては、明の史料は元々無効であり、今次の新見解はあくまで文化的な意義を持つに過ぎない。ただ八重山人を始めとする日本人が文化面で自信を持って我が領土と呼ぶことは大いに必要である。文化面での自信に搖(ゆ)らぎが有るから北京(ぺきん)駐在(ちゅうざい)の日本大使の放言をゆるす隙(すき)が出るのである。自信を持つためには釣魚列島の漢文史料を多くの人がよむべきである。それには上述の拙著(せっちょ)「和訓淺解・尖閣釣魚列島漢文史料」を自薦(じせん)したい。本年三月、長崎純心大の刊行である。書中(しょちゅう)にはほかにも幾(いく)つか新見解を盛り込んだ。  本稿で使用した正かなづかひ及(およ)び正漢字の趣旨(しゅし)については「正かなづかひの會」刊行の「かなづかひ」誌上に掲載してある。「國語を考(かんが)へる國會議員懇談會」(國語議聯)と協力する結社(けっしゃ)である。(終) ■  ■  ■  ■  ■  ■  郭汝霖「石泉山房文集」(四庫全書存目叢書、荘厳文化公司)  郭汝霖「石泉山房文集」赤嶼の前後文  嘉靖四十年夏五月二十八日、始得開洋。行至閏五月初三日、渉琉球境、界地名赤嶼。無風平浪、大魚出躍、船阻不行、顛頓播蕩、蓬扇損壞。舟人驚訝、若有水恠。如此三日、軍民慌甚、呼祝海神天妃求救。  書き下し文  嘉靖四十年夏五月二十八日に至り、始めて開洋するを得(え)たり。行(ゆ)きて閏五月初三日(しょさんにち)に至(いた)り、琉球の境に渉(わた)る、界地(かいち)は赤嶼(せきしょ)と名づけらる。風無く浪平らかにして、大魚(たいぎょ)出躍(しゅつやく)し、船阻(はば)まれて行かず、顛頓(てんとん)播蕩(はたう)し、篷扇(ほうせん)も損壞す。舟人驚訝し、水怪有るがごとし。かくの如(ごと)きこと三日、軍民慌てたること甚(はなは)だしく、海神(かいじん)・天妃(てんぴ)(媽祖)を呼祝(こしゅく)して救(すく)ひを求(もと)む。  いしゐのぞむ  長崎純心大学准教授。昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。  平成13年、長崎綜合科学大学講師。21年より現職、担任講義は漢文学等。  研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書「尖閣釣魚列島漢文史料」(長崎純心大学、24年)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会「中国研究論叢」11)、「尖閣領有権、漢文史料が語る真実」(産経「正論」23年3月)など。
清国史料、また「尖閣は国外」 台湾総統「発見」が逆証明 中台の領有主張崩壊 尖閣 · 2012年11月
「全台図説」の該当箇所(文海出版社「皇朝経世文続編」より)
 今年9月、台湾の馬英九総統が「発見」し、尖閣諸島の魚釣島(台湾名・釣魚台)が清国に属する証拠とされていた史料が、実際には尖閣が清国の国外だったことを示していることが分かった。石井望・長崎純心大准教授が4日までに明らかにした。石井准教授は「馬英九総統は、尖閣が国外だったこと示す史料を、自ら発表したことになる。日本の領有権の正当性が改めて証明され、尖閣を日本が盗んだとする中国の主張も根本から崩れた」と指摘している。 石井望准教授  台湾側の9月の報道によると、馬総統は1872年(明治5年)に清の周懋琦(しゅう・ぼうき)が執筆した「全台図説(ぜんたいずせつ)」の中から「釣魚台」の記述を発見した。  該当箇所には「山後の大洋に嶼(しま)あり、釣魚台と名づけらる。巨舟(きょしゅう)十余艘(そう)を泊(はく)すべし」と記されていた。  「山後」とは台湾島の東半分であり、文意は「台湾東側の大海に島があり、島名は釣魚台という。大船十隻余りが停泊可能である」となる。  日本が尖閣諸島の領有を開始したのは1895年で、「全台図説」の成立はその23年前。馬総統の「発見」は、日本の領有開始前に、尖閣が台湾の領土だったことを示す証拠として、台湾外交部の公式文書中に採用された。  ニューヨークタイムズ紙の著名記者、ニコラス・クリストフ氏のブログ掲載論文でも取り上げられ、台湾側の主張が世界的に発信されることになった。  しかし石井准教授の調査によれば、「全台図説」のこの記述の原文は台湾東側中部の「奇来」(今の花蓮)の項目中に掲載されていた。  清国は台湾全土を統治していたのではなく、東側中部の「奇来」は、東側北部の清国領である宜蘭県の外にあり、清国の国外でもあった。  「全台図説」の前年、1871年出版の官製地理書「重纂福建通志(じゅうさんふっけんつうし)」の今の宜蘭県の項目にも、同じ記述が見られることが既に知られている。台湾・中国両政府はこれまで、尖閣が清国に属していた最有力の根拠として、この記述を挙げていた。  石井准教授によると、同項目には、宜蘭県の領域は東北端が台湾東北海岸の「三貂(さんちょう)」までと明記されており、海に出ると清の国外になる。その東北170キロメートル先の海上にある「釣魚台」は当然、国外情報として記録されたことが分かる。  1852年の官製地理書「葛瑪蘭庁志(がばらんちょうし)」にも釣魚台について、宜蘭県の境外、すなわち清国外に存在することを示す「蘭界外」と記されている。  石井准教授の研究成果は、12月に発行される「純心人文研究」第19号に掲載される。
明国地図、尖閣は「国外」 中国公式見解を否定 石井准教授「具体的反論を」 尖閣 · 2012年10月
尖閣諸島(石垣市登野城)が明代(1368年~1644年)の中国の「管轄範囲」だったことを示す証拠として、中国政府が公式見解に採用している明国の軍事書の島嶼(とうしょ)図が、実際には国外であるだけでなく、海防範囲外を示していることが分かった。中国の主張に対する有力な反論になりそうだ。石井望・長崎純心大准教授(漢文学)がこのほど、佐賀県で開かれた講演で明らかにした。
大明一統志 天順本(統一印刷公司)より、福建省福州府の項目。  明国で一五六二年に書かれた軍事書「籌海図編」(ちゅうかいずへん)には「沿海山沙図」(えんかいさんさず)という大陸沿岸の島嶼図を収めている。「山沙」とは島嶼を指す。その中に尖閣諸島の古名「釣魚嶼」などが記載されている。  「籌海図編」が軍事書であることを根拠として、中国政府は一九七〇年代から、尖閣諸島を明国の海防管轄範囲と主張。最近では今年9月25日に中国国務院新聞弁公室が発表した「釣魚島領有白書」などで、この見解が公式採用されている。これに対し、日本の研究者はこれまで「尖閣が管轄内との記述はなく、ただの航路のしるべだ」と反論してきたが、管轄外と明記する文献を示していなかった。  石井准教授が9月30日に行った講演によると、1461年、明国で勅命により刊行された「大明一統志」(だいみんいっとうし)には、福建省と浙江省の東端が「海岸まで」と明記されており、尖閣諸島は明確に国外だった。  一例として福建省福州府の項には「東のかた海岸に至る一百九十里」と記されている。百九十里(現在の約百キロメートル)は、福州の本府所在地から海岸までの距離を示しており、明国の領土は海岸まで、尖閣は国外であったことが分かる。「大明一統志」だけでなく、明国で編纂された各地方志の「疆域」(領域)の記述も同様だという。  石井准教授は「海岸以東が国外である以上、『山沙図』即ち島嶼図の定義そのものが国外図というに等しい」と話す。石井准教授によると、明国では海岸を守るための駐屯地を、国外の近海島嶼に点在させていたという。  国外の駐屯地は、中国主張の根拠とされる「籌海図編」に「福建兵防官考」の項目で列挙され、ほぼ銅山(どうざん)、浯嶼(ごしょ)、南日(なんにち)、烽火門(ほうかもん)、中左(ちゅうさ)(厦門)、金門(きんもん)、烈嶼(れっしょ)、壁頭(へきとう)、五虎門(ごこもん)(官母嶼)の9カ所だけ。いずれも沿岸10数キロメートル以内の範囲であり、福建から約4百キロメートルの尖閣諸島は明らかに範囲外だ。  遠く台湾との間にある澎湖群島(ほうこぐんとう)も、例外的に一時期駐屯地となっていたが、それでも福建沿岸から約2百キロメートルの位置に過ぎず、尖閣諸島までの距離の半分だ。  これまで日本側は、明国の公式地理書に尖閣が載っていないと主張するだけだった。石井准教授は「これからは『明国の国内はここまで、国外の駐屯範囲はここまで』と具体的に確定して指摘するべきだ」と話している。
成果は、12月に発行される「純心人文研究」第19号に掲載される。

2012年11月8日木曜日