2009年1月26日月曜日

The meaning of life

The Meaning of Life:
この前、紀伊国屋で買ってサラーと読む。(しかし、なんだな、アマゾンの方が全然安いな、くそっ)

The search for meaningがわりに面白かったので、期待したが、これはそれほどでもなかった。表紙などにはいろんな人に称賛されているが、なんちゅうか文芸評論家が哲学者などの名前をちょろちょろだして深淵そうにみせる、日本でもあるような評論文のような印象。筋だっているかというとそうでもないが、ときどき面白そうな洞察がある。


page 15
By and large the meaning of your life consisted of its function within a larger whole. Outside of its context, you were an empty signifier.

 かつては、人生の意味ってのは、全体の中の機能・役割から成り立っており、その文脈を離れて、個人というものは、無意味な記号にすぎない、という。
ーーーこの発想と表現はいただきだね。
 リベラルやリバタリアンの個人のとらえ方の批判にもなる。(Public Philosophy参照)

 身分社会とか、あるいは、そうでもなくてもかつては、社会が共有できた神話や物語があって、要するにその与えられた役割のいかにすばらしく演じるかが、人生に意味を与えた。期待された行動役割をプロットしてくれる物語は時代によって異なるし、現代の若者などや、あるいは、若者でなくても、そうした所与の物語がなかっり、剥奪されたり、あるいは、維持しきれなかったり、疑問に感じたリして、人生の意味を感じられなくなると、新興宗教や元型心理学など、が「本当の役割・自分」を発見する物語を提供して、意味を与えてくれたりするわけだね。

 で、前回の投稿でキリスト教の神についてのちょこっと書いたけど、ああいった宗教圏では、やはり神やそれをめぐる物語が個人の人生に意味を与える重要な役割を果たしている。

 本書を離れて、今度は、ネット上の哲学百科のThe Meaning of Lifeの記事をみると、その関連のことが書いてある。(こっちの方が筋が通っていて面白い)

Returning to topics on which there is consensus, most writing on meaning believe that it comes in degrees such that some periods of life are more meaningful than others and that some lives as a whole are more meaningful than others

 人生の意味にはすごく有意義な人生とそれほどでもない、といった、程度に違いがある、という。
偉人の人生のほうが凡人の人生より有意義だろうし、また、一人の人生の中でもより有意義な時とそうでない時ある。
また、
Another uncontroversial element of the sense of “meaningfulness” is that it connotes a good that is conceptually distinct from happiness or rightness.

幸福や倫理的に正しいということが人生を意味あるものにすると言われることがあるが、一応それらとは概念的に区別すべき一種の善である、という。

 さて、神様に登場してもらうと、

 


The familiar idea is that God has a plan for the universe and that one's life is meaningful to the degree that one helps God realize this plan, perhaps in the particular way God wants one to do so. Fulfilling God's purpose (and doing so freely and intentionally) is the sole source of meaning, with the existence of an afterlife not necessary for it (Brown 1971; Levine 1987; Cottingham 2003). If a person failed to do what God intends him to do with his life, then, on the current view, his life would be meaningless.


 神様には宇宙の計画物語があって、そのなかで、神様から与えられて自分の役割があり、そのご意志にしたがって生きることが人生の意味であり、それをしないと人生は無意味、というわけだ。


神が、その目的・基準に従って、対象となる人生を評価・審判して、人生に意味が付与される。


いろいろ問題があるわけだが、


、A second problem facing all God-based views is the existence of apparent counterexamples. If we think of the stereotypical lives of Albert Einstein, Mother Teresa, and Pablo Picasso, they seem meaningful even if we suppose there is no all-knowing, all-powerful, and all-good spiritual person who is the ground of the physical world.


根本的には、神がいてもいなくても意義ある人生は送れるし、そういった人生を送っている人たちもいる、
というわけだ。

で、問題は、人生を有意義にする基準・条件は、誰のいかなる基準・条件か、ということに話が進む。
で、それは、その個人によりますよ、特定の個人が自分の好きな基準を設定すればいいんです、というのと、ウニャウニャ、それはある個人がどう思おうと思うまいとにかかわらず存在する客観的な基準・条件があるんですよ、という、主観派と客観派に大別される。
 で、主観的か客観的かは別にして、一般に、あるいは、この手の論者たちに人生を意味あるものにしている条件・基準・価値などでよくあがるのは、例えば、

快楽
経験の強度
創造性・多様性(いいことでも同じ事の繰り返しの人生は意味が少ない)
愛・献身
自分の才能を活かす(=幸福)
完全性の追求

などなどがある。

 ところが、そういった人生に意味を与えるもの・条件・基準・価値なんぞ、主観的にも客観的にもまやかしですよ、という説もあるわけだーーーニヒリズムである。


In contrast, the most external perspective, an encompassing standpoint utterly independent of one's particularity, would be, to use Henry Sidgwick's phrase, the “point of view of the universe,” that is, the standpoint that considers the interests of all sentient beings at all times and in all places. When one takes up this most external standpoint and views one's finite—and even downright puny—impact on the world, little of one's life appears to matter. What one does in a certain society on Earth over an approximately 70 year span just does not amount to much, when considering the billions of years and likely trillions of beings that are a part of space-time.

 我々は、個人や家族や社会などの利益や関心を超越して、宇宙的と言えるような視点から自分の人生を眺望することができるわけだが、その観点からもみると、お前の人生なんてどうみても、くだらんじゃないか、というわけである。

 よく嫌なことが起きると、長い目でみるとたいしたことないさ、などといって慰めることがあるが、長い目でみるとすごくいいこと、とても意義のありそうなこともたいしたことないのである。

 ある種の人たちは、神への信仰が人生に意味を付与すると考えていたが、当の神様に目的もなくへったくれもなく、人間の人生を見て、めちゃ退屈でくだらん、どうでもええやん、と思っているかもしれんね。
 しかし、こうした説はむしろ少数派で、
Very few accept the authority of the (most) external standpoint


なんで、そんな視点からみた価値観(無価値観)に権威があるのか?そんな観点からもの見ようとするからあかんのや、例えば、現世のいまこの時代の自分や家族の視点からみて評価すりゃ十分やんけ、という人もいる。

しかし、
難病にかかったり、恋人を失ったり、子供を失ったりするなどして生存目標を失うと、人は「前途が真っ暗な世界に閉ざされた」「世の中が真っ暗になった」「深い谷底につき落とされた」などといった感覚を味わうのであり[13]ースやクーレンカンプが「足場」とか「立場」などと表現しているのは、決して抽象概念などではなく、人間の根源的な感覚に根ざした表現である[14]wiki/人生の意義
というような、自分の視点、自分の存在の支えを根底からひっぱがされたような不気味な落ち着きのなさから逃れられなくなる人たちもいる。

 なにか他の生き甲斐を見つける人もいるが、いったん、このこの宇宙的視点を手に入れてしまうと、自分の行為・存在・人生に意味を与えていた目的・基準・条件がふっとんでしまうのみならず、退屈なとき、あるいは、熱狂しているときでも、知らぬ間にこの視点が忍び寄ってきて、どんな目的・基準・条件も、それらを完備したかに見える経験や行為や人生も「たいしたことない、どうでもいい、くだらないじゃないか、ムイミ、ムイミ」、というささやき声に変わるという人もいる。

 いや、その不安の中で生きることこそ、本来的な実存のあり方なんだ、という人もいる。

 あるいは、
The meaning of life is life itself

人生の意味は人生そのものだ、という人もいる。
これもいろいろ解釈されているようですが・・・

 意味というのは、(1)ある心の状態がそれ以上・それ以外の何かや事態を指向する志向・意図だったり、(2)ある通達文をみて、「これは戦争を意味する」とか、あの雲行きは雨を意味する(「この雲行きだと雨だな」)、赤信号は止まれを意味する、とか、あるいは、(1)と(2)の混合の場合もありますけど、あるものがそれ以上・それ以外の何かや事態を指し表すというように、それがそれ以上・以外の何かを指向するものなのですが、人生の意味はそれ以上・それ以外には何も指向しないで、人生そのもの、生きる、生きているということそのものなのだ、というような解釈が妥当だと思います。
 
 人生、あるいはこの経験やこの行為はそれ以上・それ以外を指向しないという点では無意味なのですが、それ自体を指向するという点で、それ自体が意味であり、また、それ以外の何かの基準や価値・権威から評価されてより有意義になったり、ならなかったりするのではなく、比喩的には、太陽に照らされて意味をなすのではなく、それ自体が権威であり、(*)それ自体が太陽である。従って、それにはまた、有意義さ、無意義さの程度がない。



 快楽をむさぼりながら性交に耽る為や人助けをする献身的・自己犠牲的行為も愛に満ちあふれて微笑むことも、what a wonderful world なら、鼻くそをほじる、他人を斬首する、あるいは斬首されること、よだれにまみれてなさけなくよこたわること、糞まみれのおむつをはいて天井をみつめることなどなども、what a wonderful worldで、ちょっと気違いじみた境地ですけど、神秘主義に近いものがある。

 ま、世俗的な世間に生きている身としていつもそうした、なんていうか、善悪を超えた善の視点に生きているわけでにもいきませんけど、一つの境地としてはおもしろいものがある、と思います。


(*)
この点、
バタイユとブランショの会話も啓蒙的である。
they theorized about the relationship of interior experience to society. The incompatibility of his inner experience with what society recognizes as valid experience seems to have especially afflicted Bataille. In Inner Experience (1943), Bataille admits that this incompatibility or gap soon plunged him into a crisis of meaninglessness. Bataille goes on to recount how Blanchot, by asserting the primacy and inculpability of interior experience, helped him to resolve his crisis. Its resolution appears to have transpired suddenly when Blanchot offered the proposition that inner "experience itself is authority (but that authority expiates itself)" (8).
The Negative Eschatology of Maurice Blanchot


体験の権威は体験のさなかだけにあって、体験が終了すると自らを打ち消す



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