2009年1月30日金曜日

”Fuck off we are full"


THE photo fanned fires of outrage across NSW and beyond.

Two Sydney girls and a boy, draped in Australian flags with sketches proclaiming F*** off we're full on their stomachs, celebrating Australia Day with a message of anti-immigrant hostility and smirks on their faces.


Fuck off we are full「失せろ!オーストラリアは満員。」とでも訳せるのでしょうか、とにかく、移民を排他するがごとき文言を国旗と共に体に書いた、若者が非難を浴びているが、その内の一人の若者がラジオインタビューで、「後悔している、悪気があったわけじゃない」という趣旨の発言をしている。
インタビュー

I’m not racist, I’m just stupid
It would be nice to just laugh at the teenagers behaviour but the power of their message is so much greater than the power of their brains.
news.com.au


単にお馬鹿な若者だったというには、メッセージは度を超えていた、という非難。


ここらへん考えさせられますね。

仮に、政治家からこうした言葉がでれば非難されるのは当然でしょう。

では、私人が、こうした発言を公的な場所でした場合どうか?

オーストラリアのケースは一つの見本を見せていると思います。
つまり、社会全体がこうしたことは是認しませんよ、とはっきり表明している。
これは社会内部からも外部からもわかりやすい。


 日本の場合だったら、どうでしょうか?
 例えば、「支那人は出て行けー」などというプラカードを持った人がかつて日本でもいました。


 例えば、右翼の街宣車なんか、外国人には目立つが、日本人は内心良かれと思っていなくても無視する。
 外から見ると、日本人はこうした活動を是認しているのか、否認しているのかわからない。
しかし、社会が無視しているからこうした活動は決して勢力を持ち得ない。
こうした活動が勢力を持ち得るのは、むしろ、例えば、靖国参拝で激しい抵抗にあうようなとき逆に力を発揮してしまう。だから一概に否定しまえばよいというわけでもない。いわゆる「黙殺」の方が有効な場合もある。


 ただまあ、穏やかな形で、こうしたことは、馬鹿げて失礼ですよ、と表明していくのが、日本の子供たちにも、また外から日本の社会を眺める人にもわかりやすい。また、それは、日本の文化風土には合っているような気もする。


 みなさんはどうお考えでしょうか?