2009.3.30 22:45
寺内健
飛び込みの第一人者として日本をリードし、北京五輪男子板飛び込みで五輪4大会連続出場を果たした寺内健(28)=JSS=が引退することが30日、分かった。4月から大手スポーツ用品メーカーのミズノで勤務する。
北京五輪飛び込みで日本選手初のメダル獲得を目指したが、振るわずに11位に終わり、十分戦ったとして競技生活に区切りをつける決意をした。
兵庫県出身。中国出身で日本国籍を取得した馬淵崇英コーチの厳しい指導で力を付け、1994年に兵庫・光が丘中2年で出場した日本選手権高飛び込みで初優勝した。五輪には96年アトランタ大会で初出場。2001年世界選手権(福岡)の3メートル板飛び込みで3位となり、日本勢としてこの種目初のメダルを獲得した。五輪のメダル候補となったが、板飛び込みで04年アテネは8位、北京は11位だった。
昨日テレビでやっていた。中国から来たコーチを尊敬する日本人選手、そして、日本人の選手に人生をかけたコーチ。結果的に北京オリンピックでは惨敗。選手の苦労はコーチだけが知っている、として、寺内選手に、いままで厳しくしてきてごめんな、とつぶやいた、そうだ。選手も感動して涙を流す。
98年に日本国籍を取得し、馬淵崇英(すうえい)となった。JSS宝塚のコーチとして、07年世界選手権男子3メートル板飛び込み4位の寺内健(27)と日本初の五輪メダルを狙う。「日本人はお金がなくても夢に向かって頑張る。日本人らしい飛び込みをさせたい」
国の開放政策の時期も重なり、88年に日本に留学した。元五輪選手の馬淵かの子さんに誘われ、翌年、JSS宝塚で教えることになった。中国では当たり前の陸上トレーニング施設もなく、自ら環境作りから始めた。
中国では選手の生活費や、引退後の職業が国から保証される。馬淵にはそんな支援のない日本で、メダルを獲得するのは絶望的に思えた。
だが、飛び板で遊んでいた小学5年の寺内と出会った。ひと目で才能を見抜いた。厳しい指導をしながら必ず結果を残させ、寺内を大切に育てた。
「中国のコーチは厳しいだけで愛情がなかった。飛び込みをしても、将来の保証がない日本では愛情は不可欠だった」
祖国を愛する気持ちは変わらない。だが海外遠征先で中華料理店を見つけても、中国選手には決して教えない。
「日本の強化システムは20年前の中国の1~2割の機能しかないのに、選手はよく成長した。北京は、健にも僕にも集大成の場。すべてをかける」(朝日 2007年11月22日)
一般人の間ではわりに日本人と中国人というのは通じ合うところがある。
近くの中華料理屋の家族も一生懸命働いて、日本人客にも好評で繁盛している。
おれもチベットその他中国政府の残虐な政策は嫌いだが、一般人レベルでは話は別だ。
欧米人の一部はネット上の一部の言説やときおりおこる対日、対中のデモなどのために、それがなかなか見えないらしい。白人至上主義者やネオナチ政党の言動から、白人と有色人種の全体を推測したり、あるいは、ドイツと周辺諸国との関係全体を推測するようなものだ。
JapanProbeで、JTの小山一郎氏のインタビュー記事を掲載している。中帰連のメンバーの証言については議論のあるところではある。中国抑留者「証言」を検証する、
しかし、今回はそれは問わない。
こうした、懺悔話は戦後嫌と言うほど報道されている。JTがいまさらなんでというかんもある。JTの記者というのは、留学でもしていて、日本の事情を知らない阿呆な若者か?
コメント欄をみると、なぜか、靖国云々の話になる。日本は中国での残虐行為を認めていない、とか、なんとか。
教科書でも書かれ、また、政府が何度謝罪してもこんな感じだ。
政府は、また、例えば、
Q.8 「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。
日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決意です。
としているのにも係わらず、である。
こうしたコメントは一部欧米人のフィクションだろうか?(LBさんがそれらのコメントにいつものように正当な批判をくわえてくださっている。)
それとも、50セントで雇われた中国のナショナリストの輩であろうか?