2009年3月16日月曜日

On shame

On Shame
これも紀伊国屋で立ち読みして、なんかおもしろうな本ないかなあ、と思って買った。まあ、よく日本は恥の文化とかいわれるからね。
恥と罪というのがよく対峙して論じられるが、
Shame is one of a family of self-conscious emotions that includes embarrassment, guilt, disgrace, and humiliation

というように、罪の意識ってのも恥と同類で、社会の規範に反してしまったことに対する反応ではある。
もっとも、恥は、現実のあるいは、想像された他人の目を媒介して、人格全体が非難されるのに対して、罪の意識はある特定の行為に関する非難である。両者の意識が起きるとき、人はそれを否定したり、隠そうとしたり、怒ったり、他人に悪をなすりつけたり、あるいは、その意識にさいなまれてふさぎ込んだりするが、それは適切な反応の仕方ではない。罪の場合も、恥の場合もまずはしくじったことを認めることからはじまるが、罪の場合は、それについて責任をとり、その償いをすることで解消する。しかし、恥の場合は、非難の対象が人格・顔なだけに、ひとさまに顔向けできるようにどのように償っていけばよいのかあいまいである。
 おもしろいのは自分がやったのではない、自分を代表している、自分と同一視できると思われるような現在、過去の過ちに対しても我々は恥や罪の意識をもつことだ。
 著者は、ホロコーストや現在でも行われる大量虐殺に対して、現代人は恥に晒されている、という。そして、この世界にそうした悪や過ちがはびこる限り、そうした、悪や苦しみを減少させていく動機として、恥は重要な道義的動機になりうる、と主張するのである。


なお、ネット上見つけたものとして、罪と恥に関して、
「罪 guilt と恥 shame 」 大柴 譲治はよくまとまっている。
ベネディクトに関しては、『菊と刀』を読みましたか?というサイトに原文と注解が詳しそうである。従来の解釈に異議を唱えているらしい。
 また、ベネディクトのテーゼを実験したものに、Guilty Americans and Shameful Japanese? An Affect Control Test of Benedict’s Thesisがある。
 安易な日本論、米国論になっていないところがいい。