Demystifying Legal Reasoning
例の如く、紀伊国屋にいって面白い本ないかなああ、と思って買った本。
さらっと読む。かなり面白かった。もう一度ちゃんと読むべきだろうな、なんて思う。
法的思考法に特有とされる思考・推論法や流行りの解釈法を解体して、法的思考法というのは日常的推論や解釈と同じものだ、とする。RatzやDworkins、Posner、kripkeなど大物をさらりと一蹴する。
あと面白いのは、また揺り戻しかな、という気もする。
というのは、以前はtexualism というのが流行っていて、作者の死とか、なんとかいって作者・法の制定者の意図・意味というのは、かなり軽視されるようになっていた。この一連の思想群は、文芸評論家たちを喜ばせた。というのは、評論家・解釈者の方にかなり解釈の自由を与えるからである。極端に言えば、いわば、作者の意図を無視して作品をネタに自分の解釈を展開できるように思えた。
非常の粗野な素描であるがそんな雰囲気があった。
本書は解釈は作者・制定者の意図を把握することであり、作品・法の意味はそれなしにはあり得ない、と論じる。
例えば、「せいかをもってきて」という文章の意味は話者が聖火を意味したのか、青果を意味したのか、あるいは、生花を意味したのかによって決まる。作品でも法文でも基本的にはこれにつきる。
確かに、辞書的意味と話し手が意味したことは違うが、文の意味を決めるものは話し手の意味したことである。また、辞書的に意味というのは、多くの話し手が新しい用法を使い始めれば、その意味が辞書に掲載されるようになるのであって逆ではない。
仮に、青果を意味したとして、リンゴがそれで、鶏がそれでないのは問題ないが、菜の花ならどうか、、あるいは、菊ならどうか?それも基本的には話し手の意図にそれが含まれていたかいなかったかによる。もちろん、話し手が、例えば、ゴボウは青果なのに青果でないと思っていたことは考えらえる。しかし、話し手が意味したことと、意味すべきだったことは区別すべきである。
この意図が意味を決定する、という説に対しては、クリプキの有名な懐疑論がある。例えば、「2を足していって数の列をつくれ」という指示に対して「2,4,6,8,10,12,、・・・・・1003,1005」が間違いである、というのに、、話者の意図、話者のもっていた具体的イメージ、あるいは、生徒の当該先生の言ったことの意図の理解は無関係である、とするが、しかし、それは、命題的知識(knowing that)と実践的知識(knowing how)に違いがあり、実践的知識は先生と生徒、ひととひととの交流を通じた社会的現実を基礎にしてえられるというだけのことであって、意図が意味を明確にする、という主張に崩すものではない。実際、我々、日常生活で、話者の意図した意味を取り違えず、明確に理解して、生活しているではないか?という。
議会の制定した法文などは、複数の個人の意図がからみあっているから、意図は問題にすべきではない、ちという人もいるが、しかし、個々人の意図した同一の意味があり、たしかに個人によって意図したことが異なるケースは皆無ではないだろうが、個々人の議員が法文によって大凡同じことを意味した、ということは変わらない。逆に、優勢の意味がなく、てんでばらばらのことを意図したというなら、その法文は無意味なのである。
そして、法の制定された社会状況や、法が実現しようとする価値、法文の趣旨などは、制定者が意図したことを明確にするうえの重要な資料である。
まあ、もっと細かいの議論はいっぱいあるが、法の解釈という点ではこんなかんじ。
で、法的思考法については、二つあり、二つしかない、という。
一つは定訳がどんなのか知らないが、ロールズのいうReflective equilibriumである。
例えば、熊を居住区で飼っていいか、を検討するとき、なんとなく、いけないように思う。で、それはなぜかなああ、と考えると、居住区で人を危険にさらすような動物を飼っていけない、という規範(rule)を思いついたとする。で、この規範をつかっていろんなケースを想像してみる。猫はどうかな?猫は飼っても良さそうだ。猫は危険じゃない、よしよし。亀はどうかな?亀も危険ではいし、亀も飼って良さそうだ。じゃあ、犬はどうか?犬も凶暴な場合はあるよな。でも、まあ、大丈夫だろう。狼はどうか?狼はやばそうだな。
で、例えば、統計はどうなっているのか?ここで経験則が働く。
で、仮に狼は凶暴なのが多いとする。すると、例えば、規範を「居住区で人を危険にさらすような野生動物を飼ってはいけない」と修正する。あるいは、狼も実はおとなしいとすれば、規範はそのままで、狼も飼って良い、という結論を出す。
このように、規範と諸々の具体例をいったり来たりしながら、また、経験則で吟味しながら、帰納的に議論を推敲していくーーーーこれが一つ。
もう一つは規範から演繹していくやり方で、過去の判例の出した規範から、結論を出していくやりかた。
例えば、「居住区で人を危険にさらすような動物は迷惑に相当し、迷惑行為は禁じる」などいう規範から、懸案な事案を検討していくやりかたである。
私が誤解していなければ、著者たちは、原則として、演繹的やり方で、規範がない場合、あるいは、既存の規範が古めかしく、それを遵守すると誤りが多いのが明かな場合、あるいは、新しい規範の法が誤りが少ないのが明らかな場合のみ、既存の規範を覆すべき、だ、という。
で、素人の観点から面白い、というか悔しいのは、例えば、過去の判例の規範の趣旨が危険防止だとして、かりに懸案になっている佐々木さんちの狼が人に危害を加えることがない、とわかっていても、規範を優先すべき、だということだ。
なぜなら、一貫した規範を遵守することによって、人は行動の予想ができ、他人もその規範によって行動するから、私はこう行動しようといった対人間調整の問題も解決するからである、という。
で、伝統的には類似例による推論と法的原則による推論ということがいわれている、という。
過去の判例で、例えば、犬は居住区で飼って良い、というのがあったとする。
で、懸案になっているのが狼だとして、狼は犬に似ている、従って、狼は飼って良い、とする、といった推論が典型例である。
しかし、ものごとは似ていると言えば、似ている、似ていないと言えば似ていない、どっちもみる観点によって言える。類似例が類似と言えるには、ある重要な点で似ている、ということであり、そこに、ともに危険を及ぼさない点で、というようなある種の一般則が働いているおり、純粋に類比による推論というのは幻想である、とする。
また、ドーキンらの法的原則(principles)は過去の法文書や判例から抽出したものだが、しかし、それでは、過去の判例が誤っていてもそれに基づいて判決をくだすことになり不合理である。
ここらへん、もっと、段階的な細かい議論があり、ちょっとおおざっぱすぎて、また、誤解もあるかもしれないが、一読して記憶をたどるとそんな感じ。
平等原則が作用する場面の論述なんかも面白い。
眠くなったのでこのへんで・・・
参考記事
law 101
Law, Pragmatism, And Democracy/ Posner
Law Key concept in phlosphy David Ingram
日本の刑罰は重いのか?
英米法解説
日本の司法文化など