2009年6月28日日曜日

Relativism

Relativism
 知識、存在、倫理、美などの相対主義に関する入門書である。これらの分野の相対主義を論破し、著者はどちらかというと形而上学的な実在論に近い立場をとる。
 なお、倫理についての相対主義について 、以前、Moral relativityという本の書評を書いた。またMoral Relativism(SEP)(英語), 知識論における相対主義について"Refutation of Relativism by Searl(Word document)
なども参照。
 いわゆるポストモダニズムや多文化主義の論者なんてのは相対主義的な傾向が強い、と思う。本書は2008年出版だから、やはり揺り戻しがあるのだろう。(postmodernismなど参照)

 例えば、ある行為の正邪を論じるとき、日本ではこうなの! アメリカではこうなの!と論じる人達がいる。言いたいのは、アメリカでは知らないが、日本ではこれで良いの!、ということであったり、アメリカで悪いんだから、他の国でも悪いの、といったことかもしれない。
前者は善悪は文化などに相対的で、それ以上のものではない、という素朴な相対主義の萌芽があり、後者はある地域で、妥当な善悪の判断は、事情を細かく考慮することなく、他の地域にも当然妥当するだろうという独断主義の萌芽がない、と言えなくない。(この点、常識的十戒律なども参照)
 しかし、ある地域ーー日本やアメリカーーーでの判断が間違っていることもあるし、規範は同じでも、事情が異なる場合もあるのだから、日本でいいと判断されているから、善い、とも限らず、アメリカでは悪いと判断されているから、日本でも悪いとは限らない。

いずれにせよ、事情・環境の違いや、善悪の判断規範などの理由は尽くさなければならない。

 相対主義や反ー相対主義=絶対主義はある種の懸念をもっており、それも一理ある。

著者はGreetzを引用して、(page 9)
 、

What relativists, so called, worry about is provincialism--the danger that our perception will dulled, our intellects constricted, and our sympathies narrowed by the over learned and overvalued acceptances our own society. What the anti relativists self declared want us to worry about・・・・is a kind of of spiritual entropy, a heat death of the mind in which everything is as significant,thus as insignificant, as everything else, anything goes to each his own.

 (訳ではないが)相対主義者は、自分の社会に慣れ親しみ過ぎて、鈍り偏狭になった感性で他者や他社会を安易に判断することに警戒し、反相対主義は、他文化などを尊重のあまり、どれも大切で、従って、どれも意義がない、といった精神の倦怠を警戒している。
で、結論的には著者は、
Epistemological relativism teaches us that what we often may be dogmatic in believing may turn out to be false:ontological relativism may teach us that what we believe to be the totality of reality may be only a portion; ethical relativismmay help to remind us that the norms of our own culture may not be entirely morally good.(Page 97)

 相対主義は、我々が独断的に真実だと信じていることは間違いであることもあるし、また、実在のすべてだと思っていることが単に断片であることも、また、倫理的な規範とて一概に正しいと言い切れない場合もある、ということを喚起してくれる点では、評価できるものの、相対主義は自滅的、自己矛盾的な理論である、と論じ、相対主義が、どれも同じ価値があるとして、優劣がつけられないから、結局のところ、進歩や自己批判まで否定することを懸念するのである。

 本書からちょっと離れて言うと、一般に相対主義と反相対主義の対立というのは、実際的な応用としては、それほどかけはなれたものではない、ような気がする。
 例えば、死刑制度や中絶について賛否の論争がある。両者にもある程度の合理性があるように思える。膠着状態に陥る。このとき、賛否についてただ一つの結論がある、あるいは、絶対的実在、あるいは、賛否を決する絶対的な基準がある、というのが絶対主義で、いや、ない、というのが相対主義で、実際的にはあってもなくても妥協するか、妥協しないで現状を維持して時が経過する、と言った感じではなかろうか?
 また、ある社会で行われていることが、少なくともこちらの判断からは間違っている、あるいは、普遍的に間違っている、と判断されても、その行為・慣習(ーーある国の死刑制度の運用など想起されたいーーー)に関して、即座に介入して停止させるべきか、あるいは停止のさせ方などは、別問題になる。(上記 SEPの論述参照)

 まあ、それはいいとしておおざっぱに、議論を追いかけると、まず、相対主義の定義として、、存在や属性や真偽が、それ自体ではなく、他との関係で成立する、という定義では、事実との対応関係で真偽が決まるとする反ー相対主義的な真理の対応説までも相対主義となってしまい、広義に逸するとして、避け、また、普遍的な真理がない、というのは知識論に限定されるから、狭義に逸するとして、(おおざっぱに、私流に言い換えると)存在者の有無、その性質、価値などは、我々人間がそれらについて、思い、言い表し、文化的に組み込むといった自明な意味で関係しているが、そうした意味以外でも、そうした存在者の有無、性質、価値などは、我々の思い、言語、文化的実践などの人間の活動に由来して成立する、と定義する。

 知識に関する相対主義は、知識に関して対立する主張がある場合、その対立に決着をつける中立的な規範は「ない」、とするが、言うところの、それが「ない」という判断は中立的か、中立的でないか、いずれかだが、中立的であるとすれば、理論が自己破綻し、中立的でない、とすれば、中立的でないが故に説得的とはいえない、という。
 また、人は自分の(枠組み、文化の)視点を超越することが出来ない、という議論に対しては、たしかに、自分の枠組みや文化的偏見がすっぽり全部抜け出ることは出来ないかもしれんが、しかし、子供は自分の視点を乗り越えて他人の視点を共有し、あるいは、、裸眼でみえなくても存在する世界はあるのだ、と認識していくように部分的に自分の視点・枠組みを乗り越えていくことはあるのだから、相対主義は説得的でない、と。
 相対主義は、命題の真偽をそのように(真あるいは偽と)判断される、という判断にかからせているが、とすれば、相対主義は間違いであるとする判断されれば、相対主義は間違いであり、相対主義は間違いである、という判断もあるから、間違いである。(ちょっとややこしいが)
 さらにパトナムの議論を援用して、相対主義は独我論に陥り、独我論が誤りであるのと類比的に誤りである、とする。
 太郎と花子はそれぞれ自分の経験から世界を構築する(独我論)とすれば、 世界の一部である花子の経験も太郎の経験から構築されるが、しかし、それでは、花子の経験は結局、花子の経験ではない、ということになって矛盾するが、これは、前提である独我論が誤っていたからである。同様に、ある命題の真偽が文化・枠組みに相対的であるなら、他方の文化・枠組みで真実とされることも結局、一方の文化・枠組みに相対的に真実に過ぎないことなるが、それでは、他方の文化・枠組みで真実とされるのはその(当該他方の)文化・枠組みに相対的に真実であるのではない、ことになり理論が自己破綻する。
 これに対して真実は絶対的であるが、真実を正当化するものは文化・枠組みに相対的であるとして、相対主義を擁護するものもいるが(Solomon)、しかし、正当化するとは、真実である理由を論じることであり、正当化のなかに真実への契機が含まれているのだから一方は絶対的で、一方は相対的であるいうように別個に論じることはできない、という。

 存在論に関しては、パトナムはかえって、相対主義をとるという。事実は念力でつくりだされるものではないが、しかし、つねに個人や人間の関心を前提とする何らかの概念・言語を前提としており、世界に関して、非人間的な既成の実在によって強制されるようなの唯一の記述はない、とするが、しかし、パトナムの主張自体も、そもそも、実在が(特定の関心を前提としないで)他でもなく、こうある、という記述・論述なのだから、自滅的な議論である。

 要するに、例えば、目の前にある豆の特性について、余すところなく列挙できないかもしれないし、様々に列挙できたとしても、列挙できるのはまだ、その一部に過ぎないかも知れないが、しかし、だからといって、その豆の特性の全体が(客観的に我々から独立に、独自に)存在しないわけではない。存在者やその性質は、人間の記述や言語に依存しないでーーそれについて語るとき言語で語る、という自明な意味以外でーーー独自に存在するじゃないか、というわけであろう。

 倫理に関しても相対主義は行き詰まる、という。
 文化によって異なる倫理がある、ということがいわれることがある。例えば、ある部族では、その部族の成員が事故などで死んだとき他の部族の成員を殺してもよい、という例が文化人類学者有がどによって紹介されることがあるが、しかし、東京で家族が交通事故で死んだら大阪で誰かを殺してよい、というのは日本では許しがたい規範であろう。このような倫理が文化によって異なる、という記述自体の真偽についても細かく吟味していかなくてはいかないが、しかし、問題は、そうした違いがあることを前提として、異なる枠組間で、その優劣はつけられない、優劣を決める中立的な規範はない、という相対主義の主張である。
 仮にこの手の相対主義が正しいとすれば、倫理的な当為は当該団体のみに適用される、ということになるが、しかし、それでは、「文化によって倫理に違いがある」という命題・前提を信じる”べき”か、否かも属する団体・文化によって異なることことになるが、が、しかし、相対主義は、団体や文化の枠組みを超えて、当該前提は妥当する、と主張していた筈であり、不整合な主張である。
 また、物差しという中立的な測りがあるから、背の高さの高低を決することはできるが、しかし、異なる文化の倫理的伝統の優劣を決する物差しに相当する測りでないじゃないか、と言われることがあるが、しかし、他人を傷つけるな、弱者の手助けせよ、などなど、特定文化を超えて、共通に評価されている規範は存在する。

 美に関しても、それが主観的な情緒や、その投影にすぎない、とする説に対して、それでは、美に関する判断の不一致があった場合、そのどれもが同等に正しいわけではない、と主張するにも係わらず、結局、趣味の違いというだけで、その優劣を論証することができないし、また、例えば、山頂からの風景を「なんて崇高で、偉大なんだ」と形容するときには、自分の矮小さを思い知らされているのであり、また、お前は醜悪だと、というとき、自分が醜悪な感情を持っているわけでもないのだから、対象に帰属された属性は、主観的な情緒や、その投影ではない、という。


 世界観に関する相対主義の章は、クーンやローティー、マッケンタイヤなどを引きながら、これまでの議論の総括的な章である。二点だけ。
クーンなどのパラダイムシフト論は、


The earth is the center of planetary motion.
by means of the following standards of evaluation
Conceptual economy ,the ability to explain common-sense、experience, and understandability

The sun is the center of planetary motion
by means of a standard of evaluation
Fruitfulness, i.e., "the effectiveness of theories as guides for research and as frameworks for the organization of knowledge

 従前の天動説は日常的経験をうまく説明できるか、などの評価基準によれば、合理性があり、また、地動説は、調査の指針として、あるいは知識体系の枠組みとしてえ、有用か否かなどの評価基準をとると、選択されるべき理論であるとして、結局、中立的な評価基準がないから、クーンは相対主義者である、といわれることがあるが、しかし、クーンは

accuracy, consistency,scope, simplicity, fruitfulness

など、優れた理論の徴表をあげており、クーンに関する上記評価は当たらない、とする。

 マッケンタイヤは知識や合理性が、伝統によって異なり、その伝統に組み込まれ、各々の伝統の知識や合理性の優劣を決する中立的で、伝統を超越した評価する方法はない、と主張しながら、一方の伝統が他方の伝統を合理的に凌駕することは有り得、アリストテレス、トマス的伝統が他の伝統より優れている、と主張することは矛盾している、と指摘する。それはそれとして、マッケンタイヤが問題解決能(problem solving ability)の有無程度によって、一方が他方を凌駕する、としているところは面白い。
 
 日本は現在、日本に突きつけられている問題を解決する能力があるのだろうか?


 それはともかくとして、相対主義と反ー相対主義=絶対主義の論争はこれからも続くであろう、という印象である。